石崎ひゅーい アンコールツアー バンドファイナルを観た夜

初めて石崎ひゅーいの音楽を聴いた時、奏でられる世界の中に入りたいと思った。
曲の住人になりたいなんて自分はおかしな奴だと感じながらも、ライブに行く度に増幅されるその想いにそろそろ勝てないでいる。

2019年1月8日。昨年秋から行われていた弾き語りツアーのバンドファイナル2daysの初日。

新年早々にも関わらず、今年一番の楽しみと言わんばかりの喜びで胸は膨らんでいた。
開演時間を5分過ぎた頃、バンドメンバーに続いて登場した石崎ひゅーい。
彼がマイクを手にした瞬間、あぁ始まる。と心の中で呟いた。石崎ひゅーいの物語へと誘われる時間の始まりだ。

暗がりの照明の中で、うっすらと見える姿が自由に揺れている。それは身振り手振りで曲の世界を体現しているというよりは、ただ本能のままに身体全体が叫んでいるように映る。
爆発。本能。自由。細胞。愛。ライブ中に次々と頭に浮かぶ自分には縁遠く感じる言葉。
それらを手にしている石崎ひゅーいの音楽が私には眩しい。どうしてこんなにも憧れてしまうのだろう。これまで自分に投げかけてきた問いから逃れられなくなっていた。

憧れと共に入り混じった手懐けられない感情に覆われたまま立ち尽くす。羨望に支配されたこんな自分はここに居ても良いのだろうか。背徳感が私を襲う。
ステージの上では繰り返し聴いてきた曲が次々と歌われていく。表現力という三文字では追いつけないその空間を、びしょ濡れになった目で見つめていた。

約1時間40分のライブが終わり足早にライブハウスを後にする。まるで何かから逃亡するかのように駅まで走り電車に乗った。
イヤホンからは、さっきまで目の前にいた曲たちが順序良く流れていく。イヤホンの力を借りても今日に答えが出ないのは分かっているけれど、どうしても今の自分から抜け出したかった。
放心していたからか一駅分乗り過ごしてしまった電車を降りて、携帯電話を取り出し明日のチケットを探した。
完売間近だったけど、運よく掴めた1枚。整理番号なんてどうでも良かった。
石崎ひゅーいの音楽が自分にとって何なのかを確かめたい。そんな想いが心を占めていた。

2日目のチケットをとってなかった理由。それは、2日連続で行けるなんて贅沢だという謙遜で自分をごまかしていたけど、本当はただの恐怖心だ。あの音楽と対峙するのが怖かった。抑えきれないものが疼きだす予感から逃げたかった。案の定、初日でノックダウンされて結局両日行くのだから、私はまだまだ自分の事がわかってないようだ。


翌日、仕事を終えて職場を飛び出し、渋谷のライブハウスへと向かった。昨日俯きながら走った道を、まっすぐ顔を上げた今日の自分が通り過ぎる。

開演ギリギリで間に合い、息のあがった呼吸と仕事モードのスイッチをパワーダウンさせていく。
ふと目をやると3歳くらいの小さな男の子が立っている。迷っているのかもと思った瞬間、お母さんがやって来た。親子揃ってファンなのだろうか。それにしても、こんな大人数のフロアであの子の背丈じゃ絶対にステージは見えない。大丈夫かなぁと考えていた瞬間、照明が消え、昨日と同じ順番でバンドメンバーが入って来た。
少し間を置いて現れた石崎ひゅーいは、何だか嬉しそうで、その表情に私はわくわくしていた。

1曲目の「トラガリ」のイントロが鳴りだしハンドクラップが響き渡る。昨日は聴けなかった曲にすでに満足してしまいそうな気持ちを抑え、じっと歌声を聴く。
何度も歌ってきたはずの曲も、まるで初めて歌うかのような瑞々しさで放たれる。この循環力には何か秘密があるのだろうか、、このライブに意気込んで来ていた私は、どんな瞬間も掴み取りたかった。昨日のように衝動や疑問から逃げたくなかったし、何よりも、自分本意な感情に負け、距離をとったままでは、石崎ひゅーいの音楽に顔向け出来ないと感じていた。

ライブは続いていき「ファンタジックレディオ」を歌う姿を観ながら、その世界を紐解いてみようと、背筋を伸ばし挑んでみる。
〈僕は11で君は22さ 割り切れないからふたりずっとずっと一緒に悩んだ〉

〈僕にもわからない 君にもわからない おもいきり泣きなよ i love you baby baby baby baby  baby〉

初めて聴いた時、こんな歌詞に出逢った事はないと思った。11歳の頃の叫びを今の自分が全力で抱きしめている。きっと「僕」はひどく悩んだだろう。11歳の心は普通とか世間とかいう巨大すぎるものの中に閉じ込められたのではないだろうか。11歳の僕が、君と一緒に抜け出せなかった出口へと、今の自分が手を取り連れていく。

きっと誰の心にも、彷徨いつづけているものがある。名前を付けられない、手つかずのままの記憶や思い出が。取るに足らないと、気付かないふりをしてやり過ごしたいつかの自分があぶり出されていく。

石崎ひゅーいの音楽はどんな出来事もなかった事にしない。そこに伴う感情が喜怒哀楽、それ以外のものでも、真っ正面から肯定し必ず居場所をつくる。その場所を与えられ、住人たちは初めて呼吸を始めるのだ。
今までずっと憧れてやまなかった世界の扉が少しずつ開きかけていくのが分かった。

急ぎ足で過ぎていく毎日の中で、何となく心を過ぎ去っていくもの。
道に残された誰かの落し物、泣き喚く子供に注がれる視線、好意のふりをした嘘。
ふと目に留まったものや確かにチクっとした言葉。
上手く扱えないのに感じてしまうそれは、私にとって苦しみだった。見つけた所で何の役にも立たないのだからと、目を塞ぎ自分の中へ放り込み続けた。

だけど、ガラクタのようにして溜め込んだものも、カラフルな宝石に変わるかもしれない。初めてライブに行ったあの日、イヤホンからじゃない歌声を耳にしたあの日、そんな期待を抱いてしまった。そしてその想いを捨て切れずに、私は今日もここにいる。いや、だけど、やっぱり私にはそんな力はない。またそう言い聞かせた臆病者が、憧れという言葉の中に隠れようとしたその時。

大好きな歌声が、昨日のままでいる私の鼓膜を揺らした。「第三惑星交響曲」だ。

亡くなった母親を想い生まれたこの曲は、石崎ひゅーいのデビュー曲であり、彼にもファンにとっても特別な曲だ。母親が自分のアイデンティティーだと語る彼にとって、この曲の所在はどう変化していくのか、簡単な心持ちでは聴けないような神秘性を持つ。

葬式、火葬場と並ぶ歌詞が、明るいコード進行と、軽やかなリズムに重なり合い、生命力を爆発させる。歌いながら遠くを見つめたり、その場で飛び跳ねたり、縦横無尽にステージの上を行き渡るこのエネルギーの原料は誰にも想像出来ない。爆発した音楽の塵を浴びて、確実にフロア全体の鼓動は早くなっている。ボルテージってやつが今ここにある。石崎ひゅーいの過去と未来の間である現在を、この瞬間共有している。私は脈打つものを体感していた。

最後のサビでマイクを向けられたファン達は全力で声を張り上げる。両手を挙げる人、声にならず両手で口元を抑える人、ただ涙を流し続ける人。それぞれの想いと向き合うかのように、歌声は響きを増していく。

その時、開演前に居た男の子が視界の奥に入った。お母さんの腕に抱かれ、同じ目線になった二人は、楽しげにリズムをとっていた。確認するように何度も息子を見つめるお母さんの姿は、この曲が持つ力を身をもって我が子に伝えているように見える。お母さんの腕の中で聴いたこの曲が、いつの日か男の子を助けてくれる時がくるかもしれない。記憶の一つ一つが、やがて自分を助けてくれると、やっと気がついた私のように。

「第三惑星交響曲」は喪失を表現しているのではない。紛れもなく存在を証明している。石崎ひゅーいが、過去を抱きしめ、今を歌うこと。それは生きている証明だ。無くなったものは、無いとしてしまえばそのまま消えてしまう。けれど、そこに居場所を与え、無くなったものが有るという事を包み込む。

時間を巻き戻せないことを彼は知っている。だからこそ、瞳に映る全てのものに息吹を与え、血を通わせ、ぴかぴかに輝せる事が出来る人だ。

私にはその姿が眩しかった。術もなく、彼の世界の住人になり、彼の音楽の中で私は輝こうとしていた。

だけどそれは大きな間違いだった。

瞳に映し、肌で触れ、想像することで心は動く。その繰り返しを重ねて今日も自分がつくられていく。それならば、勇気を出して、その一つ一つに居場所をあげたい。例え全て肯定出来なくても。鈍感になる賢さは私にはいらない。私が感じた想いは私のものなのだ。

涙を拭い、ステージの上を見つめながら思う。

次にこの姿を目にする時、私は今より自分を好きでいたい。自分のカケラとなるものを愛そう。石崎ひゅーいの音楽の住人に負けないくらい。

爆発は出来ないかもしれない、だけど今、隠れ続けてきた殻の破裂する音が確かに聞こえた。

米津玄師 Lemon



2月12日0時ちょうどにiTunesをひらいていた。

1ヶ月先のリリースを待てないほど、この曲の全貌を覗いてみたかった。

 「Lemon」は、愛する人を失った喪失感が綴られた曲。死という永遠の別離。

終わりのない悲しみに飲み込まれながらも、溢れ出ないよう、溺れて流されないよう、少しずつ少しずつ、きつく縛り動かないようにしていた感情を紐解こうとしていく。 歌いだし前に聞こえる大きく息を吸う音が、その決意を物語る。

「忘れた物を取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う」

無理矢理に蓋をしたまま、どれだけの時間を一人過ごしていたのだろう。いや、きっと時間は止まったまま、今ほんの僅か秒針が震えだしたのだと思った。

 

 人を愛するということ。不完全だったものの輪郭がぴったりと重なり合い、初めからこの為に自分が存在していたのだと知る。生きる道に明かりが灯っていく。

この曲で歌われている愛は、優しく穏やかな満ち溢れた愛ではなく、深い孤独から抜け出しやっと見つけ出した祈りのような愛。

 そんな存在が消えてしまう。確かにここにいたその手触りが記憶でしかなくなる。温かさと冷たさの体温の狭間で自分には命がある事実を思い知らされ、ありとあらゆる残酷を一人背負ってしまう。

振り出しに戻ったかのような孤独のなかで、欲しい答えを聞くことはできない。その問いを投げかける事すら出来ない。

遺されたものの葛藤や迷い。

そんな、どれだけ時間をかけても出ない答えの行方をこの曲は探し出そうとしている。

 どこへも行けない悲しみ、埋める事なんてできない空虚。共に過ごした面影を一つずつ思い返してはなぞりゆく描写が曲の終盤に差し掛かり、正直な想いへと変化していく。

 「自分が思うより恋をしていたあなたに

   あれから思うように息ができない

   あんなに側にいたのに まるで嘘みたい

   とても忘れられない それだけが確か」

 止まっていた時間を紐解いていくなか吐き出された、今の想い。誰も推し量ることができない領域で伝えられる愛情が、どうしようもなく胸に刺さる。

 「忘れた物」ではなく「とても忘れられない」ことを受け入れた瞬間から、秒針は進みだす。

生きていた時間を何度も思い出し

生きている自分を赦し

生きていく事を選択しつづける。

遺されたものの人生は続いてゆく。きっとこの先も、自問自答を繰り返しながら、過去と共に現在を生きる。  

失うということに、答えを出し、理由を探す必要があるのだろうか。

最後の言葉がそれを教えてくれる。

「今でもあなたは私の光」

愛したこと、愛されたこと。それは心に宿り、光となって自らを照らす。そして、これから先に待つものに光を射してくれる。

辿り着いたり、引き返したり。その光があれば、きっとどこにいても孤独は意味を持たない。

 「Lemon」はレクイエムであり消えることのない愛の歌だった。