あの日の続きを

 新型コロナウイルスの影響で、数週間前から仕事が休みになった。

 休業が決まった日、夕方に本社から連絡があり、急いで顧客の方に出す手紙を準備し、休業の貼り紙を作成した。閉店する数分前、やり残した事はないかと洋服に囲まれた店内を見回すと、入口に置かれた鉢植えが目に入った。

 職場で育てているコスモスとスミレ。芽が出るまでもそれからも、なかなか成長が見られなかったけれど、温かくなりはじめた近頃は、驚くようなスピードで茎を伸ばし花を咲かせた。

 中央の黄色い部分から、白く小さな花びらを細やかに広げるコスモスは、慎ましくも立派に咲いている。その一方でスミレは、強い葉を持ちながらも、簡単に折れてしまいそうな細い茎と、小指の爪にも満たない大きさの花びらが頼りなく集まっており、そのうちの数本は、茎の先端から花びらにかけて萎れうなだれていた。

 植物に関する知識が無いため、この状態が一時的なものなのか、日光や気温の関係によっては再び元気になるのか全く分からなかったけれど、休業になる一カ月(今のところ)手入れをしなくなるとどうなるのかは想像ができた。この日出勤していた人と、それぞれを自宅へ持ち帰る事にし、その人は家に白い感じがちょうど欲しかったんだとコスモスを選んだ。

 仕事を終えて歩く夜の街は、人も会話も電飾もどこかに消えてしまったかのように静かだった。視界の奥まで続く街灯だけが機械的に存在し、右手に抱えた鉢の重さを急に自覚させた。自分に任されたスミレを、少し可哀想だと思った。

 

 普段の長期休暇なら、帰省や旅行を選択するだろうけど、今日からの行先は自宅一択だ。これから毎日何をして過ごそう。

 購入したままの小説を読む。数年前に読んだ本を再読する。聴いたことのない音楽に触れる。お気に入りの映画のシーンを書き起こす。海外ドラマに挑戦してみる。身体を鍛える。生活リズムを崩さない。なんて夢想して眠った翌日、起床して時計を見ると、とっくに正午を過ぎていて苦笑した。

 それから数週間が過ぎた。食料を購入するための外出以外は、一歩も外にでていない。散歩に行くのも何となく躊躇してしまう。本や映画を見ていても、次第に視界はぼんやりと空間へ移行し、家具に焦点が合った時、何を摂取しても浸透していない自分に気がつく。

 今どうしてここにいるのかを、私はどれだけ理解しているのだろう。感染拡大を防ぐ為。そう頭では分かっていても、突然与えられた莫大な時間を消化する方法だけを考えているような気がする。それでも時間を持て余し、膨らみ続けるマイナスな想像に支配されそうになっている。数日後でさえ鮮明ではない現状。先が見えなくなると、どんどん今がおろそかになる。不安という言葉を、これまで容易く使ってきたと反省するほどに不安になる時がある。終息を願う気持ちは、どんな風に役立つのだろう。

 曜日感覚が麻痺するような生活が続いていた。ただ過ぎていく時間にもたれかかっているような毎日を生活とよぶのかは自信がない。人との会話がなくなると、どんどんと自分の声が大きくなっていく。

 こんな毎日でいいのかな。今日は昨日より寒いな。外に出ていないのに、その差は感じるんだな。今日は何を食べようかな。働いてもないのにお腹はすくな。働けなくなるのなら何も食べない方が良いのかな。また夜が来たな。昨日の夜とすり替えられても多分気づかないな。こんな毎日でいいのかな。こんな毎日でいいのかな。今この瞬間も頑張っている人がいます。家にいることが大切な人を傷つけない方法です。どこかで耳にしたアナウンスが入り混じる。どこにいたって人は傷つきます。思わずつぶやきそうになったのを思い出す。

 

 テレビでは、毎日コロナウイルス関連のニュースがながれている。キャスターは深刻に、毎秒間違いのないよう丁寧に言葉を扱う。一向に減ることのない感染者数を読み上げる。その数を聞いた瞬間、身体が少しだけ重くなる。ニュース速報の音に、以前よりも敏感になった。コロナウイルスが蔓延する前は、他人の命をどこまで想像していただろう。過剰な反応は、命への冒涜になるのだろうか。

 SNSをひらく。多くの人間が叫んでいる。生命、仕事、生活、収入、補償。具体的な数字や画像が近距離で迫ってくる。命と同等である生き甲斐を奪われた人は、生まれ変わるしかないのだろうか。生き甲斐であったはずの仕事から逃げ出したくなっている人は無責任と叫ばれるのだろうか。昼夜問わず戦っている人に、仕事があるだけマシだと放つ人がいる。感染した人が謝罪している。誰のせいでもないと昨日が言う。国が悪いと今日が言う。声をあげれば誰かが否定し、その否定を誰かがまた否定する。画面をスクロールする指を止めた。家にいても、肌が触れ合わなくても、人と人は傷つけ合う。

 働く人、家庭を守る人、様々な声と戦う人、一人で考え込む人、それぞれの環境がある。全てを比較し優劣をつけると、もう何も言えなくなってしまう。行き場を閉ざした声が、体内へと降り積もる。

 

 何日目の朝だろう。窓を打つ雨の音で目が覚めた。ベランダ側の窓を開けると、想像以上の雨量だった。

 なんとなく違和感を覚え目線を下ろすと、雨に濡れたスミレがいた。ベランダに出されたまま、この雨に一人耐えているようだった。咄嗟に、あっごめんなさい、と言っていた。久々に聞いた自分の声よりも、それが敬語であることに驚いた。

 傾けた鉢皿から流れ落ちる雨水が手首をつたい、数滴の雫が足の甲で跳ねる。不思議と冷たさは感じなかった。急いで部屋へ入れようと鉢を両手で持ち上げる。指先に力が入った。記憶とは違う感触だった。

 あの日の帰り道よりも、スミレは重くなっていた。塗装の欠けた鉢、水分を含んだ土、スミレの体重。支える指先に命の速度が伝わっていく。少しずつ少しずつ、この鉢の中でスミレは根を伸ばしていた。その重力にどんどんと引っ張られていく。

 カーテンの隙間に手を伸ばし陽が昇るのを待った朝も、身体を折り曲げたままソファーの上で過ごした半日も、スーパーのレジで伝えた大きめのお礼が明らかに不自然になった夕方も、スミレはここで生きていた。

 直径10cmの円の中で、雨粒を光らせた紫色の花びらが輝いている。開花を目指す華奢な蕾がひっそりと佇む。それを支える葉脈の美しい葉についた水滴を、指でそっと拭きとった。弱ったままの花や茎も、どれもがスミレとして存在している。直径10cmの円の中、今日も天を見上げている。

 部屋の中に鉢を移動させて、濡れたままの窓辺と床を拭いた。ふと顔を上げると、ひどい寝癖と血色の薄い寝起きの顔面がガラス窓に映っている。寝巻き姿で雑巾片手にひざまずく朝。滑稽だなあ。足元からじんわりと体温が上がっていった。さっき、必死だったよなあ。必死になった。足の裏に付いた砂を払うと、ベランダで踏んだ雨の冷たさが蘇った。良かった。まだ自分は残っていた。たった数週間で無くなるはずもなかった。

 水やりをして日光にあて、最低限の育成をしていたつもりの自分と、日々の天候にさえ無関心になった自分。家にいる不安と納得を繰り返す自分と、見えない場所で奮闘する人に負い目を感じる自分。全部が今の私。恥ずかしい程、不安定な今の私だ。そして今日も、家にいる。

 

 

 自動ドアが開いて、生ぬるい風が入り口付近のラックにかかるワンピースを揺らした。

 「い、いらっしゃいませぇ」

 数カ月ぶりとはいえ、あまりのたどたどしさに笑ってしまいそうになった。心配になってお客様の方を見たけれど、こちらを気にする様子はなく店の奥へと進んでいった。

 久々の仕事に久々の接客。通勤も電車も、何もかもが久々で少し緊張した。改札を出る時、PASMOをタッチするタイミングを間違えないか心配になるほどで、上手くいった後は、それだけで自分を褒めてしまいそうだった。

 あれだけ誰にも会わない生活をしていたのに、今日からは多少の規制はあるけれど、自由に人と会えるし、顔を合わせて会話ができる。それでも出勤後に始まった自粛あるあるに参加しなかった自分に、今日からまた接客業ができるのかと不安になった。

 「すみません、これ試着してみてもいいですか?」

 さっき入店したお客様が、壁にかかったカーディガンを指さしている。

 「はい、かしこまりました。お取りいたしますね」

 木目調のテーブルとシルバーラックの間を通りながら、口角を上げ直し、壁にかかったハンガーを手に取った。お客様を一番近い試着室へご案内し、カーディガンのボタンを外しながら会話の導入を考えていると、鏡の前で彼女が言った。

 「それ、すごく綺麗な色ですよね。真っ先に目についちゃって。水色って普段着ない色なんですけど、なんかこう、気持ちが上がりそうな感じがして」

 自分から会話を進めるべきだったのに、気を使わせてしまったのではないかと思ったけれど、穏やかな口調につられて自然に笑顔になった。気持ちが上がりそう、の言葉を汲み取るべきか一瞬迷ったけれど、野暮だと思いやめた。

 「夏らしいお色ですよね。でも主張しすぎないですし、合わせやすいかと思います」

 右腕から袖を通し、彼女の一歩後ろに下がった。同い年くらいだろうか。白い肌に淡い水色が良く似合う。

 「ああ、もうすぐ夏なんですよね。春を感じる間もなかったから。じゃあ逆に、羽織りじゃない方が良いのかな」

 「わかります。今年はお花見もできなかったですしね。こちらは素材がリネンなので、通気性も良いですし、日焼けや冷房対策でもお使いになれますよ」

 説得したいわけではなかったけれど、少しでも長く話していたかった。その間、私は店員として存在できたし、彼女の自由を数秒でも広げたかった。

 「なるほど。じゃあこれにしようかな。お願いします」

 想定より早い購入に驚いたが、胸元で手早く畳まれたカーディガンを受け取り「ありがとうございます」と一礼した後、レジへと向かった。

 カウンターを挟んで対面した彼女は、買い物を終え満足したのか、入店時よりも柔らかな雰囲気をまとっていた。

 カーディガンを軽く検品し、襟元のタグについた値札を切り取り、電卓をたたく。一連の動作が身体に染み付いていることに安心した。

 「お店っていつから再開したんですか?」

 彼女の声に、視線をあげる。

 「あ、すみません、お店は今日からなんです。少し前に営業許可は出てたんですけど」

 金銭を扱う時には、つい無言になってしまう癖も染み付いたままだった。

 「そうなんですか。まだお休みされてる所もありますもんね。駅前もやっぱり人が少なかったです」

 自粛解禁といっても、ウイルスが完全に消滅したわけではない。解放感よりも危機感が残るのは当然だった。現に、私たちはマスクをして向かい合っているし、街の空気は動揺や警戒を含むように乾いたままだ。

 「私、休業とかは仕事柄なくて、変わらず働いてたんですけど、ずっと不思議な感じだったんです。いつもやってる事なのに、何かが違って。今まで何度も見てきたものが、急に見たことないような顔するんです。職場に居ると、段々と別世界で生きてるような感覚になるというか、隔たりみたいなの感じるんです。おかしいですよね」

 さっきまでの安堵した表情から一変し、心もとない様子で彼女は言った。

 「今日は久々の休日だから家に居ようと思ったんですけど、気づいたら出てきちゃってました。でもあれですかね、自粛解禁して早々に買い物って、それはそれで不謹慎なんですかね。まだ営業できないお店もあるのに。そういうの、わからなくなりますよね」

 緩やかな語尾が、着地を求め漂っている。電卓を持ったままの手が少し汗ばむ。そんな事はないです。お仕事、本当にお疲れ様です。そう言いかけた。すぐに消えてなくなりそうな薄い言葉が口元で溺れる。何か言おうとしても、全て違う気がした。店内において洋服を除外した関係は、ただの人間同士なのだと、目の前に置かれた水色のカーディガンを見て思う。

 すると彼女は沈黙を引き取るように、肩にかけた鞄から財布を出した。

 「ごめんなさい、こんなに長々と。お会計ですよね。あれ、カードどこにやったかな。ちょっと待ってくださいね」

 「あ、いや、全然、全然大丈夫です。あの、ゆっくり、探してもらって」

 一体、何が大丈夫なのだろう。安易な表現で時間を埋める自分が情けなかった。

 財布の中を覗き込むように彼女が俯く。髪の根元が随分と伸びていた。地毛の色と染色した栗色との境目が濃くなっている。数分前に出会った、名前も職業も知らない彼女が懸命に働く姿が浮かんだ。

 誰かの生活や命を支えていた人。それは私かもしれないし、これから出会う人かもしれなかった。水色のカーディガンを見つめていた彼女は、この数ヶ月どんな色に囲まれて生きていたのだろう。私が家で過ごした数ヶ月。

 久々の休日。彼女は自分の世界を確かめるために家を出た。閑散とした駅前をぬけ、街中を歩く。人とすれ違うと、何だか安心して、ほんの少し後ろめたくもなった。角を曲がると、商店街の奥に洋服屋がある。迷いながらも入った店で、水色のカーディガンを見つけた。好きだと思った直感に、洋服の感触に、彼女は自分を確かめる。そしてまた、明日も別世界で彼女は働く。往復が続いたある日、境界線は消えるだろうか。彼女の目に映る隔たりは、時間と共に溶けるだろうか。この人に、不謹慎だなんて便利な言葉は似合わない。

 

 出口の前で、ありがとうございました、と彼女が振り返った。紙袋を手渡そうとした直前、喉の奥がきゅっと立ち上がる。

 「あの、このカーディガン、きっと、長く使っていただけると思います。来年の夏も。再来年も」

 彼女は微笑んで、小さく頷いた。

 「私、最近ずっと、その日のことだけを考えて生活していたんです。先のことを考えると不安で。正直今日も、とりあえず一日を終えようって思ってたんですけど」

 赤面していく自分には、気づかないふりをして続けた。

 「でも今日、このカーディガンを羽織られた姿を見て、夏が待ち遠しくなりました。海とか思い浮かべました。あの、何ていうか、季節は巡ることを思い出しました」

 本来ならもっと、伝えるべき事があったのかもしれない。ボトムはこれが良く合います。お洗濯は手洗いを推奨してます。そういう類の店員らしい事を言えれば良かったけれど、その特性は随分前から抜け落ちていた。

 「海、いいですね。今年もまた暑くなりそう」

 そう言って彼女はガラス越しに空を見上げた。緩やかにカーブしたまつげが扇状に広がっている。

 「カーディガン、大切にします。これから、いろんな場所に着て行こうと思います。ありがとうございました」

 マスクで隠れた口元を想像できるほど、彼女は大袈裟に笑った。どこまでも優しい人だと思った。

 自動ドアが開くと外の風が舞い込んできた。湿度と涼しさが一度に肌を撫でる。一歩外に出ると、微かに頭上が熱くなった。

 「ありがとうございました。またお待ちしてます」

 お辞儀をして、紙袋を渡した。彼女は、ありがとうございました、と会釈をして、駅の方へと歩き出した。

 彼女が足を進めると、今という瞬間が、強烈に私の全身を打った。巨大な波のように、今が目の前へと押し寄せる。白く光るコンクリートから、前髪を揺らす午後の風から、今の匂いがしている。彼女の歩幅に合わせて、私は今を踏みしめた。彼女の背中を見つめて、私は今と対面した。今が、動き出している。

 ゆっくりと息を吸うと、胸の奥が次第に広がり、幾つもの今が一斉に放たれた。家の中で蓄積されていた時間。使い捨てのように扱った今が、太陽の光を浴びて舞っている。散っていく今の続きがここにある。入口に置かれたスミレが、陽に向かって咲いている。