母の声

「よく頑張りましたね」
   突然届いた母からのLINEを見た時、一体何のことだか分からなかった。自分が褒められるようなことをした覚えもなければ、30代の娘が受けとるには少しこそばゆく感じるその言葉をしばらく眺めていると、「当選したんやって、おめでとう」と続けて送られてきた文面に、やっと心当たりがあった。

 先月、父と電話した時のこと。月に一度、出張に行く父は、そのタイミングで電話をかけてくれる。仕事、健康、家族、結婚。いつも父の話すルーティーンは決まっている。それぞれについての近況を聞かれるけれど、目立って報告できるようなこともなく、申し訳なさを隠すように相槌をうつばかりで終わってしまう。

 まぁ元気やったらそれでええねん。と、電話の切り際に必ず言う父の優しさに、本当はそれを言うのは自分だよなと感じつつも、来月は何かしら面白い話がしたいと思いながら電話を切る。

 そんな月に一度の電話で、先月は私にも報告できるような事があった。音楽文という媒体に投稿した文章が、優秀賞を受賞したのだ。受賞を知った日の夜、その事実と自分の技術との狭間で、書くという行為について一人で悶々と考えていた。答えを出したいわけではないからこそ、絡まりあう思考回路を誰かに遮断してほしかった。そんな時、父から電話がかかってきた。

 着信を知らせる画面を見ながら、あぁ今日か。と思うと同時に、このタイミングで話ができることが嬉しかった。いつもの口調で、いつものルーティーンを話し終えた父に、受賞を伝えた。伝えながら、これは単なる自慢なのではないかと客観的に思う自分がいた。この歳になっても、自己承認を父親に乞う厄介な娘なのではと、私の思考回路は熱を帯び過ぎていた。けれど、そんな想いを一蹴するかのように、父はとても喜んでくれた。読書家の父は、好きな本の話をした後、自分の好きなことを極めるのは、しんどいんやで。と言い、まぁ元気やったらそれでええねん。と、いつもより大きめの声で言った。

   その電話のことを、父から聞いたのだろう。母の言う当選とは、受賞のことだった。当選って、宝くじじゃないんだから、と返信しそうになったけれど、確かにそれと似たようなものだと思った。

 書いた文を送ってほしいと言われ、少し緊張しながら送信した。8000字くらい書いたから、読むのに10分くらいはかかるだろうし、対象の歌手のことも良く知らないはずだから、どんな感想を持つのかと思っていたら、3分後に着信が鳴った。いや絶対読んでないやん、と思わず一人でつっこんでしまった。LINEを開くと、「子供の頃から文章を書いていたね」という一文があった。それを見て、忘れかけていたある記憶が一気に蘇ってきた。

    小学生の頃、9月がくるのを必死に拒んでいた。当時の私にとって9月とは、終わりきれていない夏が無理矢理に秋にかき消される月であり、それは強制的に運動会の練習が始まることを意味した。

    私は内向的で自意識が強く、他人の目を気にしてばかりいる子供だった。本と空想が友達でマイペース。何をするにも人より少し遅かった。インドアで運動は大嫌い。校庭は敵だと思っていた私にとって、大勢の人に見られながら運動をするという、苦手が掛け合わされた運動会は一番の恐怖であり、毎年中止を祈っていた。

 なかでも徒競走が大嫌いだった。幼稚園児の頃のかけっこで、壊滅的に足が遅いことに気づいた時、悲しさよりも恥ずかしさが勝った。人生で初めて味わう競争という経験に理解は追いつかず、足が速いことが正しいことなんだと子供心に強く思った。それから毎年、徒競走は最下位。恥ずかしさと情けなさと共に走る距離は長く、外周で見ている家族のことだけを思いながら走っていた。父も母も、順位が何位だろうと関係なく、出番を終えて戻ってくる私をいつも変わらず迎え入れてくれた。それに安心してしまう自分も悔しく、最終プログラムの選手リレーでは、声援を浴びて走るクラスメイトを笑顔で応援する母の姿を見つめながら、視線の先にいない自分が不甲斐なくて仕方なかった。

 運動音痴というコンプレックスに降参しようとしていた小学3年生の頃、私に転機が訪れる。二歳下の妹が入学してきたのだ。姉として良い所を見せたいと、小3の自意識は爆発することになる。リレー選手には、どう頑張ってもなれないことは分かっていた。けれど、努力すれば、最下位は脱出できるのではないかと考えたのだ。今まで当たり前のように、最下位である「6」と書かれた旗の下に並んできたけれど、今年こそは違う数字を見上げるんだと、心に決めた。

 それから運動会までの一週間、いつもより早く起きてランニングを始めた。今思えば一週間という期間も短いし、徒競走に対してランニングをすることにも整合性がないように思うけれど、当時の自分の精一杯だったのだろう。母は何も聞かずに毎朝送り出してくれた。

 そして運動会当日。私は「5」の旗の下にいた。この一週間「3」の旗の下にいる自分を夢見ながら過ごしてきたはずだった。

   スタートを知らせるピストルが鳴って、無心で走った。目の前の人数が、5人から4人になって、3人になりかけた瞬間、その事に少し戸惑ってしまい、気づけばそのままゴールしていた。もう少しで4位になれたのに、弱気になってしまい最後は抜けなかった。そういう自分の性格も嫌だった。

  退場門をくぐるまでに涙がひくことを願いながら、みんなと足並みを揃え門へと向かった。俯いたまま走っていたその時、「良く頑張ったね!」と退場門の側にあるブランコの方から声がした。その方向を見ると、母が手を振りながら、「良く頑張ったね!練習の成果が出てたね!」と潤んだ瞳で叫んでいた。周りが一斉に母を見た。その時の自分は一体どんな顔をしていただろう。いつも他人の目を気にして、恥ずかしさを感じながら生きていた自分が、恥ずかしさよりも、誇らしさを覚えた瞬間だった。退場門を出て、今すぐ母の元へ駆けつけたい。けれど、そんな目立つことはできるわけがなく、何度も頭の中で母の声を繰り返していた。

 

   その後の授業で自由に作文を書くことになり、私はこの事を書いた。内容をはっきりと覚えてはいないけれど、母へ直接ありがとうと伝えられなかったことを、作文にしたのだと思う。

  言葉では直接伝えられないことを文章にする。それは子供の頃からの癖のようなものだった。言葉にできない感情を、文章にすると心が落ち着いた。書くという行為は、自分自身の吐露でしかなかったから、その作文が学年代表として学校文集へ掲載されることを知った時は、少し戸惑った。それは、上手く伝えられない事を、人前で大きな声で叫んでいるような矛盾を感じさせた。けれど、不思議とそこに恥ずかしさはなかった。今思えばこれが、文章というものを初めて意識した経験だったと思う。

 作文を、誰よりも喜んでくれたのは母だった。何度も繰り返し読んでくれた。足が速くなくても、運動が出来なくても、自分が母を笑顔にできるということを、その時に教えてもらった気がした。それは、自分にとって衝撃的であり、何にも代えがたい幸せだった。

 

   あれから20年以上経って、もう一度「よく頑張りましたね」という言葉が巡ってきた。

  あの時の、速く走る為の努力は、家族を喜ばせたい一心だったけれど、今自分がやっていることは、自分自身の為だと思う。正確に言うと、まだ自分自身の為にしかになっていない。父との電話で報告できる事がないように、家族を喜ばす事からは遠ざかっているし、迷ってばかりいる。けれど、そんな日々の中でも、自分が喜んでいるのが分かる。書きながら探しながら迷いながら、私は喜びを見つけている。

 克服できない苦手なものは、まだいくつもある。他人の視線は避けられないし、育ててきたはずの価値観も揺らいでばかりだ。けれど、沢山の困難の中でも、守っていきたいものが分かるようになってきた。家族にもらってきたものを、返すでもなく、残すでもなく、生かしていきたい。私なりの方法で。

   今月の父との電話では、もう少し今の自分の話をしてみよう。次に実家に帰った時は、母と文集を開いてみよう。そしてまた、文を書こうと思う。