誰かの傘

今日は朝からひどい雨だった。休日の雨というのは、何だか罰があたったような気がして少し落ち込む。
夕方から友人と食事をする約束があって家を出た。傘を差すのを迷うくらい、雨はいつの間にか小降りになっていた。


友人と会って二時間くらい食事をした後に、喫茶店に行ってコーヒーを飲んだ。
対面に座った友人の向こうに見えるカウンターの棚には、色とりどりのコーヒーカップが陳列されていて、時折それを眺めながら話をしている自分に気づいた。それぞれに作られた地域も技法もきっと違うのだろうなと器の知識など何一つない頭で思う。
店内はいろんな景色が混ざり合っていた。入り口付近には観葉植物とホオズキが天井から顔を覗かせていて、壁には大きな油絵が飾られていた。私達が座ったテーブルの隅には橙色に灯った小さなランプと天使の置物があって、会話の途中に真っ白なそれと目が合うと、綺麗に加工された言葉にしか口にできないような気がした。

会計を済ませて外に出るとすっかり雨は止んでいた。止んで良かったねぇと話しながら傘立てに手を伸ばすと、あったはずの私のビニール傘が見当たらない。

あ〜とられちゃったんだね〜と安易に言う私に、えっえっ!と動揺してくれている友人の姿を見て、もう降ってないし大丈夫そう!と明るく伝えながら、あるドラマを思い出した。

2015年に放送されていた坂元裕二さん脚本の『問題のあるレストラン』

このドラマで(いや、坂元作品は全てそうなのだけれど)忘れる事のできないシーンがある。

主人公・たま子が、かつての恋人である門司へ自分の想いを伝えるシーン。

すっごく端的な説明になってしまうのだけれど、身近で起こっている事にまるで無関心な門司に対して、たま子が自分の言葉で内にある想いを立体化していく場面だ。

 

傘立てにビニール傘が並んでいる。最初に傘泥棒が来てその内の一本を盗んで差して帰っていく。別の人が来て、傘を差して帰っていくのだけれど、本当はそれはその人の傘じゃない。その次の人も、次の人も、気づかずに自分のじゃない傘で帰る。そして最後の人は、傘を持ってきていたのに傘が残ってなくて雨に濡れながら帰っていく。傘泥棒がもちろん悪い。だけど、次の人もその次の人も、本当にそれが自分のものか確認すべきだった。責任があるとも、謝れとも言わない。ただ、最後に雨に濡れて帰る人がいるかもしれない事を想像すべきだった。と話す。

門司には理解されず考えすぎだと一蹴されてしまうのだけれど、当時このシーンを見て号泣した覚えがある。台詞の行間やたま子が話す声の震えまで鮮明に残っているくらい好きなシーンだ。それからは雨の日にコンビニへ行くとその情景を思い出してしまう。

傘泥棒が持っていった私の傘は今どこにあるのだろうか。友人が持っていた桃色の傘ではなく、ビニール傘なら盗んで良いと思うのはどうしてなのだろうか。その時点で自分に窃盗の判断基準が備わっていると気がついた時、一体どんな気持ちになるのだろう。

だけど私は?もしそのビニール傘が思い入れのある大切なものなら、入り口ではなく席まで持って行ったのか。もし思い出のビニール傘ならもっと哀しんでいたのか。

思い出や金額に関わらず自分の持ち物が無くなる事に良い気持ちはしない。だけど私はそこまで落ち込んでいなかった。むしろ傘泥棒だ…と、問題のあるレストランの話を駅までの帰り道、興奮気味に友人に話していた。

あの台詞を間接的ではなく初めて体感できた気がした。言葉の一つ一つが自分に染み込んでいくような感覚に喜んでいるような気さえする。

普通なら落ち込んでしまいそうな出来事に遭遇したとしても、ドラマの台詞に救われることがある。そんな体験をしたのは初めてだった。

それが音楽でも絵画でも器でも料理でも、創意がこもったものは人を助ける力がある。

きっと順繰りに、助けたり助けられたりしていくものなのだと思う。その順番が巡ってきた時、私には何ができるのだろう。何を受け取りどんな風に渡せるのだろう。